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無感動の嵐

 胃が痛むのは、眠気のせいだけではないようだ。ついこないだのように思い出される手痛い惨劇以来、緊張を要する場面では心臓に突き刺さるような不安感がつきまとう。

 かと思えば、踊っていた心がにわかに無関心と無感動の暗雲に覆われ、ただ茫然としてすべてが過ぎ去るのを待つしかないこともある。

 辛い、苦しいといった感情もそこにはなく、従って解決も逃避もない。すべてが無意味に、無色透明に、ただ一体となって浮かび上がるだけの時間を経て残るのは、まさにすべてよしの諦観のみ。

 日々の営みに合理性や意味が見出されるのは、結局のところ、我々が捉える意識世界の細かな部分部分が識別され、個々に名前が与えられているからだ。名もない透明な、境界のない世界全体という塊に意味などない。

 感動や関心とは、そうした分別という自我の根源欲求の顕れだと仮定する。日常から非日常の体験を切り出し、渾然とした群れから自己のアイデンティティを見出し、同質化の輪に身を浸しながらも独自のフィルターとしての自己を確認、主張する。然るに、感動と関心の提供という観点において、何が必要かは自明であるように思える。

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