CDのリマスター版を聴いたりして、思う。確かに音はいいし、ミュージシャンが世に出したかった本来の音はこっちなのだろう。技術や資金や人材の問題でできなかったことが、今は可能になったわけだから、感慨深いだろう。でも、受け手からするとやっぱり、当時聴いた音への愛着は深い。荒んだ心にスッと染み入った、チープでワイルドな音。時代の勢いが、空気が、傷だらけになったLPに、CDに、当時の自分の思いとともに封じ込められている。

 それでも、リマスター版を手に入れてしまったら、肥えた耳はやっぱりそちらを選んでしまうかもしれない。エンコードしてファイルにしてしまえば、便利さに負けて原盤への執着も薄れるだろう。原盤を手放せば、古い音への執着も薄れ、いずれ新しい音で上書きされる。そして古い音を聴くことはもうなくなるかもしれない。

 最近、デジタル化以後の経験や記憶の希薄さにはっとすることがある。情報の量は増えたし効率も密度も高まったが、とにかく体感や実感が希薄だ。行動は最適化され、知識は増えた。すべてが建設的に、効率的に、積み重なっていく。しかし、真に鮮烈な私的体験はどこへ消えたのか。日々のニュースや話題は共有され、誰との会話も似たようなもの。みんなニコニコして、よく狂わないでいられる。

 自分の興味が、先端にも向かいつつ、泥沼のような深みにも伸びていくのは、やはりそうした慢性的倦怠感からだろうか。五月の生暖かい風を頬に受けながら、キラキラとした未来への希望と同じくらいに美しい懐かしさを感じてしまう俺は、先端に生きるには狂気が足りないのかもしれない。


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